读后感
07日语。
李尚龙
「環境問題」――余りにも耳慣れた言葉だ。しかし正直な所、私はこの問題について考えることを少し苦手に思い、敬遠していた。何となく腑に落ちない感じがしていたのだ。その代表が地球温暖化だ。もし地球の気候が変動して、今地球上にいるヒトを含む多くの生物が絶滅してしまっても、恐竜に代わって哺乳類が繁栄したように、新たな環境に適応した別の生物が台頭してくるだろう。だから、「生命の星」としての地球の価値が失われることは無い筈だ。それにも拘らず「地球のため」と唱えながら環境保護に取り組むことは、実は「人間のため」という、所詮は自己中心的なものなのではないか。森林を著しく減少させ、砂漠化を至る所で進行させてしまった人類は、今地球に排除されようとしているのかもしれない。そんな考えがあった。「地球に優しい」と一般的に言われている省エネや省資源に取り組んでいる時も、「本当にこれは地球のためと言えるのか」という疑問が忽ち脳裏にポカリと浮かんできて、心に靄がかかったようになってしまうのだ。今まで私は、その靄を無理矢理遠ざけて、それ以上考えを深めることをやめてしまっていた。しかし、この作品と出会った時、「今まで逃げてきた問題に本気で向き合う時が来た」という運命を感じた。
そして、実際に読む段になった時、やはりぼんやりと苦手意識を感じることも多かった。しかし、筆者を含むオデッセイ号の乗組員たちの眼差しが常に自然への慈愛に満ち溢れていることを感じ、自ずと打ち解けるようになってきた。筆者の目を通して見た大海原や島島の自然には、躍動感と神秘とが詰まっている。今までジャングルに分け入ったことも、長期間の航海に出た経験も無い私のような者にとっては、実際には一度も見たことの無い光景ばかりだ。私は読んでいる間何度も地球儀を回し、生命がびっしりと地球を埋め尽くしている感動に浸ることができた。
オデッセイ号がガラパゴス諸島に訪れた時には進化についての話が出ている。進化のメカニズムの精巧さが私の想像を遥かに超えるものだと分かったのが、収束進化について知った時だ。同じような環境下で活動する生物ならば、進化の過程はばらばらでも最終的には同じような姿に収束していく。つまり、生物種の一つ一つは、極めて無駄が排され、最も効率的で合理的な姿をしているということだ。しかもそれらは見事な多様性を保っている。もし神がいて生命の設計図を描いているとするならば、その発明の数は人類が到底追い付くことのできないものだろう。
だが一方で、その貴重な発明の数々が、一つ、また一つと無に帰している現実も見えてくる。種の絶滅だ。その上、その原因が私たち人間にあることを示すデータがあちこちから出されており、最早言い逃れも許されないらしい。「彼の目を見ることは、絶滅を見据えることと同じです。」ガラパゴス諸島にただ一頭だけ残るゾウガメの亜種について筆者が述べた言葉だ。これ程切ない状況は無い。
そして私は、自分の今までの考えが浅はかだったことに気付かされた。「ヒトも含め、あらゆる生物が絶滅してしまっても」とは、私が絶滅を見据えたことが無いからこそ言える、とても恐ろしい前提だったのだ。今の地球の生態系は、永い永い進化の賜物だ。進化とは自然淘汰によって作られていくものだから、全ての生命は莫大な数の生と死の上に築かれているものだということになる。船に迷い込んだヤドカリも、陸から陸を休まず渡っていく蝶も、無邪気に船を追いかけるクジラも、そして、生きようと必死になる余りに自然を傷付けてしまったヒトも。私は地球を愛し、それに見合った行動も一応取ってきたつもりだったが、本当の生命の価値とはどれ程のものなのか理解するための経験も想像力も決定的に欠けていたのだ。
この作品に描かれている世界は、確かに筆者の誇張などが含まれているような、一種の色眼鏡を通して見ている世界なのかもしれない。しかし、だからこそ私は、自然が躍動する現場や、逆に生命が絶滅の危機に瀕しているような現場に立ち会ってみようと決意した。筆者の視点ではなく、私自身の視点で、自らの五感を使って自然の息遣いを捕らえる必要性を感じるからだ。まだクジラに会ったことも無い私は、筆者の目というフィルターを免れることは不可能だ。しかし、そのような中でも自分なりに全てを疑ってみた上でようやく得ることのできた真実は、「この地球上の生命には、一つとして生きる価値の無いものはない」ということだ。私はこのことが分かった時、自分を苦しめていた靄をやっと晴らすことができた気がした。私が苦心して掴んだこの真実は、これから「環境問題」という最大にして最難関の問題に立ち向かう時も、自然の感動に触れる時も、いつも私を支えるに違いない。