感想文
日本の小説家の中で、文学賞を得た川端康成と大江健三郎より、もっとすきなのは、ほかの二人だ。つまり一人は夏目漱石で、もう一人は村上春樹だ。二人の生活の時代は違うんだけど、いろいろな共通点があるだろうと思うんだ。彼らは人生と社会に対して、まじめで、率直な態度を抱いた。そして、書き方のユーモアと機敏において似る部分もたくさんあった。
この夏休みに、夏目漱石の『心』という本を読んだ。「私」の視野を通じて、「先生」を描いた。「私」は東京へ来て、大学で勉強した。「さん」じゃなくて、「先生」と呼ぶから見れば、「先生」は「私」にとって、大切だと思うんだ。「心」は三部分の文を構成して:先生と私、両親と私、先生と遺書。第一部分は「私」と「先生」の付き合いの過程を述べた。第二部分は両親のことを書くのを通して、側面で「先生」を引き立てた。最後の部分は「先生」から「私」に書いた遺書ということを描いた。これは一番重要な部分だった。
「先生」はもともと単純で、心地よい男だった。両親がなくなってから、財産をおじさんに任せて、管理させた。だが、全部の財産はおじさんに奪われた。それから、すべての人を疑い始まった。東京へきった「先生」はKという友達と一緒に家主の娘のことを愛してきた。Kは「先生」にそのことを知らせるんだが、「先生」は友達を裏切て、家主にプロポウズを提出して、許すことができた。だから、悲しかったKは自殺することにして、遺書を残した。そんな画面を見た「先生」がはじめのすることはいったい遺書の中で自分によくないものがあるかを確認したんだ。答えはもちろん否定だ。その後、「先生」と家主の娘は結婚して、両方とも深く愛していた。でも、「先生」はKの自殺することにやましい気がして、ぜんぜん忘れられなかった。数十年間は妻の幸せだけのために、生きてきた。二人は世界の最も親密な関係になったけど、「先生」は妻に自分の罪を告げることができなかった。「先生」はずっと一人で寂しさを耐えてきた。ありのままにすべてを告げたいと思って、妻が自分のことを赦すのを信じたんだけど、まだその勇気がなかった。だから、急に死んだように自殺して仕方がなかった。
「私」はずっと「先生」の世が嫌な原因を探していって、やっと最後の遺書の中で、答えを見つけた。おじさんに迫害をされるとき、「先生」はただ人のお金に対する態度を絶望した。Kの前で深慮を使って、いよいよKが殺させた後、自分のことが嫌になってきただろうと思うんだ。嫌うことは世界にも伸びて、世の人々にも伸びて、ようやく絶望してきたことになった。たぶんこれは唯一の解脱することだと思う。
『心』は人物の心の深刻な変化重視した。友情と愛情と、選ばなくてはいけなければ、どちら選ぶのか。この本を読んでから、その問題を思わずに考えた。いざという間際に、急に悪人にからるんかも知れないではないか。「おじさん」も、「先生」も、それなら、私たちはどうするつもりだか。その質問はちょっと極端かも知れないだけど、その画面を会ったら、どうするかな。自分は悪人になるかもしれないと思うんだ。あたしは気が弱い人だけで、英雄になる勇気と追求がない。喜劇に英雄がなくて、英雄は自分の血でみんなの心で痕を残して、ただ悲劇にいるんではないだろうか。あたしは英雄になれなかったが、
やれるのはもっと優秀な普通人になることだけだ。全力して、精神的にきれいな普通人を目標にして、かんばっていきたいと思うんだ。