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【2010寒假读书报告】——2007日语 倪晓鹏
发布时间:2010-04-29
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菊と刀日本文化の型

                                       07日语倪晓鹏

必ずしもまとまりがよいとは言えず、また、ベネディクト本人が日本に一度も来ない
で(戦争中だったから)分析したということもあり、細かな点では疑問が少なくない
ですが、全体的にはおもしろい本です。ただ「名著」「古典」にありがちなことなの
ですが、必ずしもちゃんと通読されず、俗流解釈が広まっている気もしないではあり
ません。そういうわけで、まずはよくある誤解から解いておきましょう。
 
まずは書名の「菊と刀」について。これは「天皇制と暴力」を表しているわけではあ
りません。「本書の内容」にも書きましたが、これは日本人のもつ二面性を表してい
ます。すなわち、「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽す」、そ
の「同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実」にはじまり、「軍国主義
的であると共に耽美的であり」、「頑固であると共に順応性に富」む(「第一章」6頁)
というような矛盾して見える日本人の行動を指しているわけです(そして本書はこの
矛盾の理解を試みる)。
 
また、あまり一般には触れられていませんが、別のところにも「菊」と「刀」につい
て書いてある箇所があります。「菊は針金の輪を取り除き、あのように徹底した手入
れをしなくとも結構美しく咲き誇ることができる」として、日本も好ましくないしが
らみから脱することができると説いているところ(「第十二章」343頁)、そして、
「刀は攻撃の象徴ではなくして、理想的な、立派に自己の行為の責任を取る人間の比
喩となる」(「第十二章」344頁)として、それが自由に必要な自制の徳であると説い
ているところです。日本は自由のない軍事国家から生まれ変わることができるという
分析も、この「菊と刀」という題名には込められているのです。
 
次に、一般に本書は、「個人主義」に対する「集団主義」、「罪の文化」に対する
「恥の文化」を日本文化の特徴として分析したものと解されています。これは間違い
とは言い切れないのですが、「集団主義」に関してはこういう言葉を用いて本格的に
論じられている箇所はなく、「恥の文化」に関しても数頁(「第十章」256頁以下な
ど)が割かれているだけです。ですから「集団主義」「恥の文化」を正面から扱って
いると思い込んで読むとあてが外れます。もちろん広い意味での「集団主義」分析と
解せる示唆は多くあり(「恥の文化」もこの中に含めることができる)、したがって
本書は日本の「集団主義」を分析した書ということになっているのでしょう。
 
本書を今回改めて読んで共感したのはその文化相対主義的姿勢です(敗戦直後に日本
語で翻訳出版された本書は、当時、「日本の前近代封建主義批判」の書として読ま
れたようです。その影響からか、現在でもこれが「日本文化批判」の書とみなされる
こともありますが、これは誤解であり、本書は文化相対主義の立場に立っています。
同趣旨として青木保『「日本文化論」の変容』)。敵国分析として行なわれたのにも
関わらず、本書は西洋文化中心主義的発想から日本文化を劣ったものと見るのではな
く、あくまでも「もし自分が日本人だったら」という発想の下、公平に日本文化を分
析しています(これが「型」分析である)。
 
そしてこれはベネディクトの国際理解観とも結びついています。すなわち彼女は、
「違いは皮相のものであって全人類は本当は同じ心をもっている」という信念を「一
つの世界」主義、あるいは「四海同胞主義」と呼び、それらは画一主義だとして批判
します。ベネディクトによればそもそも画一化は不可能であり、また、相違は自分を
豊かにするのであって好ましくないものではない(「第一章」22頁)。その上で、お
互いの違いを理解し合えば誤解を解消できるというのです(「第一章」19頁)。

こういう文化相対主義的姿勢は、冷戦終焉後、西側自由主義陣営が文化的に勝利した
とする「歴史の終わり」(フランシスフクヤマ)的観方を中和する上で、現在では
特に重要な気がします。例えば本書には次のような文章があります。
 
《アメリカにできないことは――いかなる外部の国にもできないことは――命令によ
って自由な、民主的な○○を造り出すことである。そのような方法は、いかなる被支
配国においても、いまだかつて成功を収めたためしがない。いかなる外国人も、彼と
同じ習慣や仮定をもたない国民に、彼の考えどおりの生活の仕方をするように命ずる
ことはできない。》(「第十三章」365頁)
 
《日本はわれわれの基礎の上にではなく、日本自身の基礎の上にその自尊心を再建せ
ねばならないであろう」そしてそれを日本独自の方法によって純化してゆかなければ
ならないであろう》(「第八章」175頁)
 
この「日本」を「イラク」に変えれば、これらの指摘は今でも十分通用するのではな
いでしょうか。もしアメリカが乱暴に自己の文化を広めようと考えているのならぜひ
ともこのベネディクトの声に耳を傾け、もう少し慎重になってもらいたいです。アメリカは日本を占領するにあたって、この『菊と刀』に見られるような日本研究を行いました。しかしイラクに関してはそのような文化研究をし、それを占領政策に活かしたという跡が見られません(例えば、酒井啓子『イラク 戦争と占領』:読書録384)。その結果が現在のイラク占領政策の惨状に結びついていると言えるでしょう。 
 
例えば本書には、日本の官吏を残す形で占領したことを評価する箇所があるのですが
(「第十三章」346頁以下)、アメリカはイラク占領に際してバース党員をすべて排除
してしまいました。バース党員を用いながら占領すれば混乱は少なかったのではない
かと指摘されるだけに(読書録359384など)、何とも残念です。
 
この本は「日本研究」としての重要性を超えて、現在の異文化理解のあり方を考える
上でも有用な書物だという気がしました。