《武士道》読後感
--中国の侠客と日本の武士道の比較
冬休み家で、《武士道》を見ました。見終わった後に、私は日本の武士道と中国の侠客が多くの違いの場所があると感じます。
武侠とはなんぞや?武をもって侠を為す、ということなのではないだろうか。「侠」といえば、日本では「やくざ」のイメージであるが中国では「おとこぎ」のこと。そもそも「侠」とは、人と「キョウ」の発音(夾=たのむ)からなり、自分の力をたのみにして人を助ける、または助ける人の意味である。つまりは力でもって正義を行うということである(『蒼天航路』の劉備がわかりやすいかも)。少年ジャンプでおなじみの「友情;努力;勝利」の世界といってもよい。
また、特徴としては「官界」ではなく「江湖」を舞台としていることである。つまり、武侠においては仕えるべき主君というものが存在しない。そこが『三国志』や日本の時代小説、西洋の騎士道小説との最大の違いであるといえるだろう。むしろ、彼らは時に弱腰のおかみをこらしめることもある。彼らの戦う動機は友情や愛情、そして正義のためである。金庸が「侠客は腕試しなど名誉のためには戦わない」と言っていたのは興味深い。彼らの目から見れば、腕試しのために人を斬り、道のために妻を置き去りにする日本の侍は告白に写り、また侍の目から見れば侠客は女のためにでも命を捨てる馬鹿者に見えるであろう
日本で武侠といえば?先程少年ジャンプが出たが、我々日本人にとってもっとも親しみ深く、かつわかりやすい「武侠的」エンターティメントは80年代に一世を風靡した『北斗の拳』であろう。「力でもって正義をなす」のなら『ドラゴンボール』でも『聖闘士星矢』もそうではないかと思うであろう。しかし、『北斗』にはこれらとの決定的な違いがある。それは「剣の道に女は不要」論を捨てていることだ。ご存じのように『北斗』においては、ユリアをはじめとする女性の為に漢たちが死んでいく。本来、日本では「武」と「女」は両立しないものであり、吉川英治『宮本武蔵』をはじめとしてヒーローは女に決して振り向かないストイックさが要求された。しかし、『北斗』ではむしろ女性こそが戦いの動機である。この違いは大きく、『北斗』は日本の作品ながら中国色を拳法のみでなく、思考においてもとりいれているといえよう。
さらに、「秘孔」で点穴の概念を導入したことや、「峨嵋刺」、「(新)霊台」など武侠色の強い要素が数多く見られる。初期は特にそうであるが、戦闘スタイル、衣装なども中国を強く意識しており、『北斗』こそが最も知名度が高い和製武侠ものといえる。金庸も古龍も当時は翻訳されていなかったが、そういった作品を原作化した映画などを参考にしたあとが伺え、また台詞回しなどもレベルが高く、名作といわれるゆえんはこうした緻密な取材によるところが大きいと思える。『北斗の拳』の続編である『蒼天の拳』も武侠色が濃厚で、「幇」などが登場している。
もうひとつ、忘れてはならないのが『水滸伝』である。日本でも江戸時代以降人気が高いこの作品は、まさしく武侠の元祖といえよう。ただし、この物語は後半において侠客集団が官軍に投降して政府配下になってしまう。これは昔から反発も大きかったらしく、清代にはこの後半部分をカットされてしまった。そのため、日本に渡来した完全版は本国では長く知られないでいたという奇妙な現象も起こった。
た、アジアで唯一武侠の翻訳が遅れた日本であるが、映画は別で多数公開されている。では私の感想はこれまで。がんばって皆で英雄好漢を目指そう。
07日语班 尤佳