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【2012寒假读书报告】——2008级本科生党支部李梦月
发布时间:2012-03-02
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漱石の「坊っちゃん」を読んだ。初めて読んでから、今回でもう7、8回は読んだであろう。正直言っておもしろい。何度読んでも、いつ読んでもおもしろいのである。そして、ふと考える。「坊っちゃん」はなぜこんなにおもしろいかと。

 筋は簡単明瞭である。学校を出たばかりの単純明快で、竹を割ったような性格の坊っちゃんが下女の清に後ろ髪を引かれる思いで、単身、田舎も田舎の松山の中学校に数学の教師として赴任する。そこで、男気のある上司の山嵐と一緒に、権威をふりかざして弱者を合理的に貶める教頭の赤シャツに制裁を加える。山嵐にしても坊っちゃんにしても、赤シャツやその取り巻きの野だを制裁したところで何の得にもならない。

 至極単純なストーリーだが、江戸時代の読み物のような勧善懲悪のものとはまったく違う。なぜなら嫌な奴ではあるが赤シャツは悪人ではなく、人から尊敬される帝大卒の教頭であるからだ。おまけにそれなりの愛嬌もある。

 「坊っちゃん」を子細に眺めてみると、2つのものの対比が見えてくる。それは善人と悪人という単純な対比でなく、制度と自然という対比である。おそらく「坊っちゃん」のおもしろさはこの制度と自然の図式の上に成立していることに起因しているように思われる。明治政府は過去を清算し、西洋型の新しい制度の構築に邁進した。その典型が帝国大学である。帝国大学は国のリーダーとなって、制度を作る人間の養成機関であった。そのため帝大卒は地位も名誉も財産も手に入れることができた。漱石その人も帝大卒であり、制度の落し子なのだ。

 赤シャツは制度の側の人間として、そして、坊っちゃん、山嵐はその制度に敗れ去った人間としての立場をとる。坊ちゃんは旗本の家系、山嵐は会津の出身である。どちらも明治とともに没落した。ただ漱石は坊っちゃんを敗れ去った者としてではなく、自然なままの姿として描く。坊っちゃんの行動をみればそれは一目瞭然だ。坊っちゃんの行動には原理がない。あるのは自然の情だ。坊ちゃんの兄は将来実業家になるために英語を勉強し、そして高等商業を卒業する。坊っちゃんが数学の教師になったのは、学校を探す際、たまたま物理学校の前を通りかかり、そこが生徒募集していたから、そのまま規則書をもらって入学の手続きをしてしまったからである。

 赤シャツの行動原理は打算である。赤シャツは打算のために、うらなりの婚約者のマドンナを奪い、自分に批判的な山嵐を謀略の果てに追い出し、単純な坊っちゃんを懐柔して手なずけようとする。赤シャツの打算の裏付けは制度に対する絶対的な信頼である。芸者と遊んでも、山嵐と坊っちゃんに殴られても、制度はびくともしないし、赤シャツの地位も脅かされることがない。

 制度と自然との対比は何も赤シャツと坊っちゃんとの関係だけではない。この作品を奥深く、そして温かみのあるものにしている清の存在が、制度と自然の対比を一層際立たせている。

 清はこの作品の白眉である。清ほど打算とほど遠い存在にあるものはない。清は坊っちゃんの打算的な兄を徹底的に嫌い、坊っちゃんに対しては実の母親以上の情を注ぐ。清は母親の存在を超えた「人格」なのである。ここで、ふと江藤淳の書いたことを思い出す。

 <日本の近代小説には新しい人格が描かれていない。たとえばチェーホフの「かわいい女」のような>

 この文に接したとき、<先生(江藤淳は私の先生なのだ)なにを言っているのですか。清がいるではありませんか。清が日本の「かわいい女」です>と言いたくなった。

 清=自然であり、清が住むのは東京(=江戸)なのである。漱石にとって江戸は自然そのものであったのだ。

 制度と自然は作品の中では図式として描かれるが、漱石自身の中では葛藤する。制度の落し子である漱石は一高・東京帝大講師という超エリートコースからはずれて世間的には小説記者という売文業に身を落とす。目を見張るのは、漱石が博士号の授与を断わることだ。末は博士か大臣かと謳われた最高の地位を放擲したのだ。

 漱石も葛藤の末、自然を選んだのである。「坊っちゃん」だけでなくあの暗い「門」「行人」「明暗」もおもしろいのはこの自然が作品の底に流れているからだろう。近代人、現代人問わず、人間はやはり自然なものだからだ。